心象万華鏡・76/短歌


鈍りがちなナイフ ぼんやり焦るのは趣味ぢやないから、今はそのまゝ

やはらかなガーゼいち枚分くらゐ、わたしに許す 躊躇の陣地

似たやうな場所を痛がる子どもたち ぼくらは同じ根から来ました

ふかふかの褥のやうな沼の底 安心なんて錯覚よ、去れ

わたくしの弱みにつけこむわたくしは聖女で魔女で 犬笛鳴つた 

さゝやかな傷みに満ちる遠浅の海よ 叫びは直線でなく

呑み込んだ息が冷たい石になる 渇いてゆくしかないみづたまり

またひとつ甦らせた笑ひ方 離れることで添へるあなたに

わたくしの中の潮は重力に逆らへなくて 再会、億年

明るめの海には暮らせないだらう 肺胞といふ瓶詰めの罰

こびりついたものを自力でこそげない憤り 手の甲に歯型を

狭量なぼくはぼくにも狭量で 燻されてゆく銀の縫ひ針

神様のゐない世界が好きだつたまゝごと 合はせ鏡の月に

新月の夜にゆつくり焦りだす秒針 草の穂絮はきらひ

風紋と陽に照らされる川波と 真ん中なんてどこにもなくて

波線が立証をする後悔がどんどん冷えてゆく 紙風船

なぞりゆく骨の窪みに深爪を立てたいなんて 星が見えない

わたくしが失くした尻尾の末端が風にじやれつく これも隷属

ひと息を殺して叶へた禁欲は朝焼けの色 傘をさします

くびすぢに香る遥かな腐臭 もう原生林は立ち枯れてゐる

混沌のプールの対角線上を泳ぐ 泣いても仕方ないけど

膝のうらが咽いでゐます 黄昏の半端な甘つたるさよ、消えろ

晴れてゐた水曜 風を睨んだら憂鬱ひとつ気化できさうで

見えるとふ錯覚 地球照の弧をなぞつて高めた胸騒ぎ、あの

脆さうな封蝋 嵐の海岸でしづかにほゝゑむ哀しみを抱く

越えられない壁 息をする瞬間に因数分解する切なさに

暗がりは怖くて安心 けふの破滅思考はちやうど擦り硝子のやうに

クッキーの抜型、耳に押し当てゝ探す喧騒 迷子未満の

満月の夜の手前の陽だまりの残酷 だけど振り返らない

また、といふ違ふ時計の竜頭から滲んだ微熱 風が止まつた

雑踏の真ん中  ぼくはぼくといふ熱帯雨林に生えた雑草

スクランブル交差点 この赤道のあたりの海は荒れてゐないか

もう秋の夕風といふ揺り籠にうづまつてゐる 鼓膜、透明 

過ちのトレース、血より濃い絆 青年の日のあなたは宿る

いまだつて嫌ひな因数分解の向かうに見える断崖 自嘲

また吐いた弱音分だけ背徳を抱つこしたまゝ 海の沈殿

をさなさといふぬひぐるみ、離せずに独り影踏み 深爪をした

包帯で白く巻かれる傷口に同情をした 知らない夜空

哀しみが溢れるほどに 日常のデルタ地帯は海を知らない

ヒトとして生まれた日から綾取りは続いて 風が捲るカレンダー

克明な檻なのでせう ふいに吹く突風にいまさんざめく皮膚

交差点は焦土 群生諸島からゆつくり進む暖流、探して

細くほそく吐き出した息 彼方から警笛が来てかすかに寒い

やさしさをしまつてしまつた冷凍庫 烙印ひとつあへて消さない

左手に舫綱、でも右手にはナイフを握つてゐる 朝の月

握りしめるその瞬間に越えてゆく寂しさの川 流砂を見たか

自転してゐることだけが生きてゐることだとしたら 草原の胎児

通過する列車の残像 まだ少し泣くには早い予感がしてゐる

けふといふ日の残響の砂たちが東に焦がれてしまふ 三日月

Ars longa vita brevis 辛いなら不敵に笑つてゐようぢやないか












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